昭和54年11月1日月例祭
信心によってお陰を受けるという事は信心によって心が助かるという事。お道の御信心をさせて頂きますと心が助かってるところに必ず御利益の方は伴うてくると言うのがお道の信心のありかたでございます。だから信心によって、先ずは自分が助かろうという願いを立てなければいけません。まずは自分が助かるということ。
先ほど光昭先生が前講でお話をしておりましたように、何処にどういうような人間関係があっても、問題があっても、それを神様の御都合と受け、それを神愛として受け、そしてそれが人間関係である場合には相手のことを祈ってあげれるといった心の状態。
今日私が御神前にでましたら、時季はずれですけれども蕨をたくさんこう頂いたんです。ワラビ、「山焼けて、また萌え出ずる蕨かな」という句があります。萌え出ずるほどしのお陰、萌え出ずるような心のよろこびの状態それが必要なんです。信心のよろこびというのはみずみずしい湧いて出るようなものでないといけんのです。
今朝から直方の山本さんが毎朝お参りになります。あの山越えをしてね、昨日今日と霧が深かったらしいですから、「それこそ金光様、金光様で来なければ、とても来れない。今日も来る道々いよいよ近ずいております筑豊地区の支部大祭のことを心のなかで念じながら来らして頂きましたら、何処から湧いてくるか分からんけれども、喜びが湧いてくる、それが涙になって溢れてくる。片一方の手にはハンカチを握り、もう一方の手にはハンドルを握るといったようなことで、それこそ泣く泣くお参りをさせていただいた」というお届けがございました。
ありがたいですなあー・・本当に何がありがたいというても、涙が出るほど有り難い。それを何か特別の着物を頂いたとか、何か特別の幸せをいただいて、ありがた涙が流れるというんなら分かるんですけど、「どうぞ筑豊地区の御大祭麗しく盛大に仕えられますように、」と支部員私達一人一人が、思いをこめ真心をこめて、ああでもないこうでもないと思いを心の中に練らせて頂いての、心の状態の中に喜びが湧いてくる。
それこそ、「その喜びは天地から来るもので天地に帰ってゆく喜びでしょうなあー」というてお話をした事でした。それは山本さんあなたの喜びではないんです、天地が感動ましましているんです。しかもその喜びは何処に行くか、それは天地に帰っていくのです。素晴らしい事です。
「人間は土(どろ)より出でて土(どろ)にかえる」と言われる。その道中とても土(どろ)の信心土(どろ)の生き方を身に付けなければいけない。後先だけが土(どろ)で真ん中は我がよか事じゃあいかん。そこに生き方というものがある。いうならば土(どろ)の信心に極まったと合楽ではいわれておます。だからその道中とても土(どろ)の生き方を身に付けさしていただく。
今日蕨を頂いて「わらくのび」ということ。わは平和の和、楽、そして美しい、いわゆる真、善、美に輝く世界、合楽世界をそういう風にこれは表現します。極楽のもう一つ向こうにある世界、そう言う世界をこのように自分の心の中に開いていただいて、それをそのまま、あの世までも、持ち続けさせていただこうと云うのでございます。
それには昨日福岡の倉本という方がこの頃東京の支部大祭にお陰を頂いて京都には子供さんが居られる。京都に寄られた。そこに何日か逗留して竜安寺の見物にやらして頂いたというて、あちらの名物のお菓子をお供えを、その包装紙にその竜安寺に有名な手洗いがあります。「吾唯足知」と書いてある、真ん中が口という字になっている。何処から読んでも「吾」という字にも読めれば、「唯」とも読める。われただたると下にこう書いたら「足る」という字になる。こちらに書いたら「知る」という字になる。図案化した包装紙を見せて頂いていましたら、神様からお道の信心の特異性と言うか、は、唯不平不足を言わねばよいと言うのではない。これに甘んじておるということであってはならない。
「吾唯足らざるを知る」といただきました。唯足るを知るが仏教の悟りであるならば、「お道の信心は唯吾足らざるを知る」と言う事。見ること、見ること自分を見ること。教えの鏡を立てて自分という物を見みせていただき、分からしてもらうと、足りないところばっかり、その足りないところを補のうていくというか、頂いていくという生き方に、それは無尽蔵、限りない御陰に繋がってゆく世界がここから開けて来るということでした。限りない御陰の世界というのは、いよいよ吾唯足らざるを知るという生き方にならなければならない。正しく土(どろ)の信心でございます。いよいよ土(どろ)の信心を本当のものにして、天の心をココロとして限りなく麗しい、限りなく無条件に捧げる世界、そこに潔い世界がなからなければならんのでございます。
天地足ろうた、陰陽足ろうた世界、そこが合楽という意味になるのです。天と地が一つになって喜び合う、そこから祝い目出度い鶴亀の舞い遊ぶようなお陰の世界、合楽の世界そういう世界をお互いが目指さしていただくのですから、例え山焼けてもその後に萌え出るほどしのお陰を受けてこそ、はじめて本当のお陰と言う事が云えるのです。(みずい
?)も、並べることも無い火にも焼けることのない信心。それこそ山焼けてまた萌え出るワラビのように私達の心の底から萌え出る、湧き出る喜びを頂きたい。
そういう喜びに触れる事のために私は神様が聞いておって下さって「うれしいなあ、ありがたいなあ」と神様が思うて下さるような、昨日の御理解にも申していますが、福岡のご婦人のご信者さんですけれども今朝方からお夢を頂いたと云うお届けが昨日有りました。これはお夢じゃないけれども、私の姉が久しぶりにやって参りました。お願いに私の写真をこう拝んでおる。このお写真は何ですか、書道の先生か何かですか?と云いながら、云われる事は私はこの部屋に入って思わず知らず、写真に合掌している自分に気が付いて、一体この人はどういう人なんだろうかと思うたとお姉さんが云われた。『これは今合楽で生神様といわれるような方のお写真ですよ』と言って説明をした。そういうような事がお夢の中に現われてきておる。そのときに思うた。お姉さんと言う人は神仏に手を合せるという人ではないけれども、思わず知らず手を合わせたというが、合せずにはおれない、いうならば、信心。そういう有り難い処がある。それを話してどうでも姉をお導きさせていただかなければと思うてやすませて頂いたら、お夢の中に、「道を歩いておったら沢山のリンゴがなっている。そのリンゴを一ついただこうと思って、そのリンゴがまるで水密糖にように、ふくよかな、軟らかい感じのリンゴで有った」というのです。
それこそ「リンゴかわいや」という歌がございますでしょう。それこそ神様が目を細めて、まだ信心は浅いけれども、ご造営のお役に立たせていただこう、自分の周囲に今私が頂いているこの信心の喜びを自分の周囲の人に伝えて行こう、お導きもさせてもらおう、示現活動に参画さしていただこう、という思いを起こさせていただいたら、神様がそれこそ目を細めてそれこそ、リンゴかわいやという心、心情を見せられたのであろうと申しました事でした。今日山本さんが自動車のなかで片一方の手にハンドルを持ち、もう一方の手にハンカチを持って、泣き泣きここまで参りましたと。どこからこのありがた涙が零れるのだろうか。思うてみると一生懸命に、一心に今度仕えられるところの筑豊地区の支部大祭の催しが盛大に神様に喜んでいただけるようなお祭りが出来ますようにということを、思い祈らしてもらっておつたら何処からか湧いてくるその喜びに浸る事が出来たというのです。ですからまず思わなくてはいけないことがわかります。神様がよろこんでいただくことを思わなければいけん。
私が十一歳の時になります。計算するとそうなるんです。丁度少年少女会、子供会で親教会に参っておりましたら丁度おやすみの時間に、もう亡くなられました二代の親先生と現在三井教会の総代をされている岸という小学校の校長先生を長く務められた方です。と二人でお話をしておられる、表の玄関のところで。「先生何人ものことはいりません、本当の信者を一人作ってください」と話をしとられるのが私の小さな耳に入ってきた。小さかとなかですね。私のは大きいですから、大きな耳に入ってきた。その時私の心に閃いたものは、その一人でよいという本当の信者に私がなろうと思うた。これはもう思うたんです。思わんでならんからでなく、そしたらそれこそ突き上げるような感動が湧いてきた。まだ十一の少年です。あんまり涙が零れるからおかしいので、そこにみかん畑があった。そのみかん畑に入って泣いたのを思っております事を今にして思うと本当の信心が頂けた真の信心になりたい。一人でよいといわれるほどしの素晴らしい信心信者にならせていただきたいと子供心にも思うたら、その思いが天地に通うたのであろうと思うた。
天地が感動在しましたんだと今私は思うんです。ですから天地が感動在いますような思いに一つ思いを変えていかなければならない。そしてそれがいうなら「土の信心天の心」先ほど光昭先生が申していたように「小さいことに拘らず、大きいことに驚かず、天地のように生きたい」という、天地のように生きたいという願いを持たなければならない。神様に喜んで頂くような事を思うということと同時に自分自身が天地のように生きたいという願いを私達の信心の根底に置かなければならない。信心の根底にはこれがなければならない。そこで「天の心とは、地の心とは」という事になる。その天の心地の心を詳らかに、それこそ、成そうと思えば誰でも出来る。しかもそれが楽しゅう、愉快にまで行じていけれる手立てが合楽理念であります。ただそれを覚えただけではなく、それを根底のところで、天地のように生きたいという願いを先ずは立てなければならない。
私はいつもお祭りを仕えるたんびに、とりわけ、お魚のお供えがたくさん集まってくる。それを必ず実感するんですけれども、三十年前後の私が福岡で修行中の時分にそれこそ、お月次祭といっても水ずくしで仕えた時代であった。御神酒すずのなかにも御神酒が入ってなくて、お水であった。それに庭によくできましたニラがいつも月次祭たんびにニラが一台お三宝に小さな三宝ですから、まあそこに有り合わせの物をお供えして月次祭を仕えさせていただておりました時に、神様が「水ずくし、このお祭りは水ずくし。魚ずくしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ」というような御教えの歌を頂いたことがあります。本当に今の合楽はそれこそ、魚ずくしであります。
、今日の御理解などは、ご覧のように大きな鰤が何本もお供えになっとります。大きな鯛が何枚もお供えになっとります。そういうお陰の世界、それに自分の心の中に和楽の字があって、はじめて合楽世界と云うことになると思うんです。昨日吉井の熊谷さんが月末御礼会の時に話しておりましたが、とにかく、私達の周辺には、それこそ、金もあり、物もあり、健康でもありと云いながら、とにかく、死ぬことの苦しみや悩みを持った人がたくさんあると云うこと。あっちこそ極楽じゃろうと思っておったら、話を聞いてみたら、そういう悩みがあった、そういう苦しみがあったというような人たちが、もうそれこそ、いつもお話を聞きにみえます熊谷さんとこの金子という方が今朝方からこういうお夢を頂きましたと見えた。「たくさんの人が大水が入ってきてその大水に押し流されて、そして『熊谷さん助けてください』といっておるところであった。もちろんお水は恵み、多すぎるほどのお恵みの水を、いうならば、お恵みを頂きながら、それこそ助けて下さいと言う様な難儀な人達が世の中に自分の周辺には一杯いる。そういう人達が本当に巷に溢れておる。そういう人達がいよいよ助かっていくことのために、先ずは私が助からなければならない。私が助からずしておいて、その、いうなら押し流されている人達を助け救うことはできぬ。それで先ず、いうならば、心が助からなければならない。そして今、真善美輝く御陰の世界に住まなければならない。いうならば、和楽の美である。今日私は、その方のことを思い出して正教先生あれあれといっておったら 、すぐ後からはいって見えた。伊万里から吉田さんという方なんです。昨日の月末御礼信話会でお参りさせていただいた。今日は今月は容易ならない月のようでございますので、神様にどうか今月の信心の目当てのようなものを頂きたいと言うて今日お参りになったのでした。神様にお願いさして頂きましたら、「これぐらいばっかりの聖護院大根というんでしょうか、大根がこうやって寝ている処」を頂いた。それで私はそれからヒントを得て、御神米にこう書かせていただいた。「楽はせんぞと言う気になれ、楽はさせていただくものぞ」と次に書かせてもらった。楽はせんぞという気になれ、楽はさせて頂くものぞ 。と
はあ今日は一ちょう、飲みに行こうかというのは自分で楽をしようとしている。今夜は一丁芝居を見にいこかというのはこれは自分で楽をしようとしているのである。
けいども誰かの招待をえて、どこか飲みに連れていって頂いたとか、お芝居の招待券が来ておった。それがさせていただく「楽」なんだ。これはね、私が長年体験さして頂いたことなんですけれど、自分で「楽」をしようと思わない、神様がさせずにはおかんという働きが起ってくる時にそれを頂きとめて行く「楽」でなからなければ本当の極楽とは言えない。それが次の合楽に繋がる事なんだ。いうならば、大根というのは、あんまり苦労がないものだ、黒がない。「楽」にしとる感じがしたので、「楽はせんぞという気になれ。」ここまでならね、大変厳しいようにあるでしょう。
金光さまの御信心さしてもらえば酒も飲みに行かれん、芝居も見に行かれんと言う事ではないのです。自分から求めて「楽」をしようとは思わない。神様から許されて、いうならば、させて頂く「楽」ならば、それが自分に少し贅沢と思うような「楽」でも「神様ありがとうございます」というて受けてゆくこの「楽」というものは、まあお芝居の面白さが百ならば、許されて神様の御陰で見せて頂くお芝居はそれこそ千も万ものありがたさというものが伴のうているもんです。 やあーありがたいなあー自分ぐらいの者に神様がこのような「楽」をさして下さって、 と言う信心がそこから育ってくる訳です。いうならば有難くなられる手立てがある。
そして、それがどういう事になるかと申しますと、大根が寝ておったのが起きた訳、「楽」はせんという気になった。そして神様がさせて下さる「楽」、神様が与えて下さる「楽」、許されての世界、そこにはお徳の世界があるのです。その大根が、言うならば、、かんくろうになるようなお陰になってくる訳 ね。「かんくろう」というのは切干し大根のことです。これはいつまで置いても悪くならないでしょう。それを先ほどリンゴのお知らせを頂かれた方が四、五日前にお夢をいただいて、
「先生楽しうて楽しうてというようなお夢をいただきました。」とこういう。
「どんなお夢でしたか」
「山登りをしておる。しかし次が素晴らしい、俳優に加山雄三というハンサ ムな俳優がいるでしょう。加山雄三とふたりで 登山をしておる。」
そらー楽しかったろうとまあー思います。ところが頂上に上ってみるところが、いっぱいかんくろうが干してあったということです。信心というものは、いうならば、嬉しゅう、楽しゅう、それこそハンサムの男性の方と婦人の場合、二人で山登りするように、ちょっと、きつかあばってん楽しいして堪 (こた)えんと、云うように、信心は楽しうさしてもらわなけばいけない。
信心は山登りと同じ事。ダンダン登って参りますと視野が広うなって来る。、いうならば、今まで見えなかった処が見えてくる。今までわからなかっつた自分の心のなかが隅々までもわかっつてくるようになる。今まで見えなかったいよいよ、頂上を極めるその喜びというものはまた格別である。しかもそこには、もう徳の世界がある。かんくろうの世界である。というようなお知らせをいただいていましたから、今日の私の大根のエイデルさんに対するそれも寝とっただけでは、大根に終ってしまうけれども、「楽はせんぞ」のその修行には、そこに大根が切られ刻まれ、またそれが腐れる場合もありましょうけれども、神様皮肉なお方、本気で修行しようとすると、本気でさせてみようという働きが必ず始まるです。こげん思とるから誰か酒飲みに連れて行ってくれんじゃろかと思いよったらいつまでも酒飲む場は生まれてこん。不思議です。あーあ芝居が来とるけ、行きたいばんてんと思いよるなら、何時までたっても招待券送っちゃあこんです。不思議です。やはり捨てるという事、我情我欲を捨てるという事、思いを捨てるという事、そこにはわが身は神徳の中にあるように、それこそ、思いも懸けない処から私どもこの頃は東京にまいりましたら、今、芸術参加祭の素晴らしい歌舞伎があってます。( ? )二枚目の処にそこは大体取れないんだそうですが、私が行く事を話さして頂いたら、市川海老蔵さんがその場を取ってくれたという事でざいました。神様が市川海老蔵まで使って席をとってあってくださった。しかもこのお弁当は一万二千円もするげなというお弁当を頂きながら、お芝居を観賞さしていただいた。それこそ有難さというか勿体なさというか、それこそお芝居を見ながら有難いのです。ですから神様を騙(だま)くらかすような考え方をする人がある。自分が食べんとか飲まんとか何かせんという気になったら、神様必ずさしてくださるだろうとさして下さることばっかり考えよるようなことでは、いつまでたっても本当の( ? )そこには断念、我情我欲を断念するんです。その向こうにわが身は神徳の中に生かされてあり。それこそ、させずにはおかん、飲ませずにはおかん、見せずにはおかんという働きが起こってくるその働きの中に生きる生活を本当の意味においての信心生活と思うのです。
私がご神夢にいただきましたワラビ、わらびの字きとはそういうことではなかろうか。山焼けても、また萌え出る蕨かなと言うような、どういう場合であっても焼けもしない、ただれもしない、めもりもしなければ、流れもしないというような信心が、(ゆるにきたわれておって?)そこを通りぬけた向こうに、(おやぎ?)の世界があるということでございます。
合楽ではそこのところを皆さんが本気になってそれに取り組ませて頂くならば、ちょっと修行でなくて体全体が修行態になるということです。そこにはね、楽しい、うれしい、ありがたい、どこから湧いてくるか分からないほどしの喜びが湧いてくる。その喜びこそ天から与えられた喜びそのままが天地の感動だ。その感動がまた天地に帰ってゆく。そういうお陰の頂ける手立てが合楽では説かれる。お互い人間先ずは土(どろ)からい出て土にかえるのですから道中とても土の心で生きさしていただこうと思わなければいけない。天地のように生きたいという願いを先ず信心の根底に置いておかなければ出来ない。そこからの修行ならまた楽しいという事になる、有難いという事になる。その向こうに「わが身は神徳の中に生かされてあるんだと実感出来れる「喜びの世界、合楽の世界」がそこにあるのでございます。 どうぞ。